食と間食の境界線がなくなっていく
コロナインパクトから1年以上が経過しようとしている。このことは食の構造と食卓シーンの変容をはっきりと顕在化させた。外出自粛などによる在宅時間の強制的な増大は、おうちごはんのシーンを増大させるなど、表層的な変化をいくつも出現することになった。当然、家庭内で使用される食材や加工食品の利用や購買は増加することになった。これは外食シーンの強制終了の反動ともいえるもので、必ず揺り戻しはくる。コロナインパクトの収束は外食バブルを生みだすことは自明である。
だから、食の構造や食卓シーンの変容の本質はこんなことではなく、<6食以上>の暮らしのリズムへと、食の実態と価値が移っていっていることである。1日をならしてみると、6回以上の口に物を入れるチャンス、つまり喫食の実態があることである。もちろん、1日に3回程度の喫食しかない日もあれば、そうでないこともあるが、たとえば1週間くらいをならしてみるとそうなっている。これを私たちは<6食以上>の暮らしのリズムへの構造変化ととらえている。
ところで、30年以上にわたって食や食卓シーンの実態を見続けてきた私たちからみれば、<6食以上>の喫食シーンが出現すること自身は、それほど驚くことではない。この喫食回数だけに限ってみれば、<6食以上>になっていることをとらえて、食の構造変化や変容というほどのことではない。これは以前からもあったことであり、今重要なのは、この<6食以上>の喫食チャンスでの食の実態のウェイトづけが変わったことである。
たとえば、朝昼夜という三食のシーンが質量ともに価値として中心を占めて重く、それ以外の喫食シーンは、その補助程度として極めてウェイトが軽かった。典型的な言い方をすれば、食と間食が厳然として区別されており、三食こそがウェイトが高く食の中心を占めていたのである。とりわけ、その中でも夕食の位置が実態としても価値としても高かった。ところが、<6食以上>という食構造の変化は、その回数の増減のことではなく、その6食の喫食の内容も価値も、どれもが同じウェイトになっていっていることなのだ。コロナインパクトによってこのように変容したのである。私たちのキーワードでいえば、食と間食の境界線の解体、シームレス化ということである。
加えていえば、ドリンクというアイテムだけで構成されている飲むシーンも、単なる止渇性という機能を超えて、食と同様の価値のウェイトを持ち始めていることにもなる。さらにこのことは白湯やホットのお茶が多頻度飲用されているのは、止渇性を超えて健康機能の充足に向かっていることにもつながったりしている。
食と間食の境界線が消え、<6食以上>の喫食シーンのすべてが、同じ価値のウェイトを持つということに、構造は移っていっていることが重要なインサイトである。
<三食解体>とごちそう感の変容
この構造変化、食シーンの変容はまず、これまで三食として当たり前のように考えていた世界を変えていってしまっている。朝昼夕食ということを前提にした食卓構成や価値が変化してしまっているのだ。典型的な例でいえば、たとえば一汁三菜や主食と副食、主菜と副菜という、三食の規格ともいうべき組み立てが変容していっていることである。あるいは、和洋中といったメニュー構成も怪しくなっているのだ。このことを私たちは「三食中心主義」からの脱皮、<三食解体>というキーワードで呼んでいる。主食としてのごはん、パンというもののポジションと価値が変わってしまった。こんな実態の一つを<カフェごはんスタイル>の定着というとらえ方をすることができる。たとえばワンプレートで構成された食事、その中には和も洋も中も混在しているし、加工度も温度帯もなんでもありである。主食であるはずのごはんが、プレートを構成するアイテムの単なる1つとして盛られていたりもする。
これは、カフェという業態での食体験の蓄積が日常的な食卓に定着したといえることだし、ブッフェスタイルの体験がカジュアルに出現したものといえる。<6食以上>の暮らしのリズムが、このスタイルを選択させたことになり、とりわけこの食体験の主人公である若い世代やシニア女性で顕著である。これは残り物の再利用にも効果を発揮することにもなるし、ある種のごちそう感にもつながっているのだ。このごちそう感の変容という視点も重要である。
間食のリストラクチャリング ―「手作りおうちデザート」
2つ目のポイントは、<6食以上>の食の価値のウェイトの配分が、いわゆる間食のシーンやオケージョンに移っていっていることで、間食そのものが変容していることだ。食と間食の境界線が突破されていくことで、間食イコールおかしというような簡単な図式ではすまなくなっているのだ。間食というとらえ方をしていた喫食機会の重要度が上がり、それを構成するアイテムも変わってくる。間食そのものがリストラクチャリングされているのだ。
これもその典型的な変化の例をあげておくことができる。私たちが「手作りおうちデザート」と呼んでいるシーンである。これまでならば、あまり選択されなかったであろう果物を使って、おかしアイテムなどと組み合わせて簡単な手作りデザートを作って楽しむというような価値の表象である。ホットケーキミックスや小麦粉などが品切れしたといった現象の根っこはこんなところにある。チョコレートソースやデザート作りに必須のアイテムなども準備されていたりもする。おうち時間の増大ということが背景にあり、一手間を加えることを惜しまなくなったのである。
リモートワークなどでの在宅時間の増加による影響が最初のきっかけであったとはいえ、この新しい食体験による価値の発見は、再び在宅時間の減少というステージが到来したとしても、頻度が下がることがあったとしても定着していくことになる。
新しい食領域―自然のリズムとの共棲
食と間食のシームレス化という、<6食以上>の食シーンの新しい価値のウェイトづけは、全く新しい食の領域を広げていくことになる。これが3つ目のポイントだ。
<三食解体>によって、ごちそう感が変容していっている。<カフェごはんスタイル>でのワンプレートや、それらが混在した食卓構成こそが集いの場のごちそうである。現在は集いのシーンが減少しているとはいえ、この領域は広がっていく。と同時に、たとえばワンプレートの中の1つのアイテムに過ぎなくなったごはんというもののごちそう感が再編して浮上することにもなる。
いわゆる白いごはんというものが、主食の座から滑り落ちてからずい分久しい。それがさらに加速しているのが現在である。それでもなお白いごはんと副菜の組合せが三食の基本メニューであるかのように位置づけ、その副菜の調理プロセスを時短、簡便化しようとしている課題設定は、もはや日常的な食の構造からはズレているのだ。
炊き立ての白いごはんを核にして、一汁三菜で構成された食卓は、とっておきのごちそうの価値の体現といっていい。焼き鮭とおいしい漬物と旬の菜の酢の物と、みそ汁で構成された食シーンは、しっかりと手をかけた特別にしつらえられたごちそうになる。だからおいしい漬物にはこだわりを求めたりすることにもなる。
また土鍋で炊き上げたごはんでおにぎりをにぎる。これに卵焼きか漬物がついているだけで圧倒的なごちそうシーンになる。これをもって、季節の変化を感じとりながらのお弁当シーンは最高のごちそうになる。野原ごはんの楽しさは、季節の移ろいを感じとる自然のリズムとの共棲ということになり、この時の旬の素材を味わうことがごちそうということになる。自然のリズムとの共棲というキーワードはコロナインパクト以後の価値の方向そのものである。2月上旬、強くなり始めた日射しから「光の春」を感じとりながら、やはりまだまだ続く冬の寒さには冷やごはんを土鍋で炊いたおかゆ一品を食べることもまたごちそう感であふれている。三食が解体し、間食との境界線が崩れていけばいくほど、こんなごちそう感覚が新しい食の領域を広げていくのである。
同様の視点でみていけば、たとえばおにぎりとおせんべい、おかきといった米菓との間がシームレスになり、新しい領域が広がっていくことになる。おにぎりがごちそうになっていけば、もう一方でおにぎりがこれまでの間食の価値に近接化していき、米菓が食の価値に近似化していく。ここに新しい食の地平が広がっていくのだ。これはお米という食材の価値の拡張であり、お米そのものの暮らしとの関わりの中での需要の持続可能性を生みだしていくことにもなる。食と食材の持続可能性、これも新しい食の価値の広がりの中で生みだされていく重要なキーワードだ。
経済社会リズムから持続可能性へ
<6食以上>という食に現れた暮らしのリズムの顕在化は、在宅時間の増大が直接的な影響要因であったけれども、このことが表出していった新しい価値の体現は、構造的な変化そのものである。外出自粛やリモートワークの促進などによるおうち時間の変化は、やがて揺り戻され当然外出頻度の上昇につながっていくことになる。だが、時間の消費のあり方が元に戻ることがあったとしても、この新しい価値への構造転換は戻ることはない。また逆にリモートワークなどはさらに加速していくこともあるだろうし、もっとメリハリがついていく暮らしのリズムが主流となっていくことも予想されているといっていい。
私たちの日常的な暮らしの大半は、20世紀型の経済社会リズムに支配されてきた。たとえば通勤や通学といったある種強制的な経済社会のリズムによって、食も支配されてきたということでもある。経済社会リズムは24時間化し、グローバル化していくことで、暮らしのリズムも同様にそうなっていくことを余儀なくされてきたといっていい。これに対するカウンターアクティビティがいろいろ模索はされてきていたが、これにコロナがある意味くさびを打ち込むことで、新しい価値へと暮らしを強制的に転換させるきっかけになったといっていい。もともとあった転換の兆しに追い風が吹いて明確に顕在化したといえる。
経済社会リズムと自分なりの暮らしのリズムが併存することになったのである。経済社会リズムという外部要因ともいえる強制力がゆるみ、自分で自分の暮らしの時間割を立てることが増加したのだ。これの最大の発露が食のリズムだということになる。<6食以上>という暮らしのリズムの到来である。
すでに述べたことだが、ここで重要なのが自然のリズムということになる。自分自身で暮らしの時間割を立てる時、その道標として規範になるのが自然のリズムである。食はとりわけ自然のリズムとの共棲が、より自然な流れだといえる。
経済社会リズムの進展と拡張は、ある意味食を自然のリズムから逸脱させる力を持っていた。食領域の経済成長は、自然のリズムに依拠していた食のあらゆるプロセスを経済社会リズムで管理することで生みだされてきた。これが飽食と飢餓のアンバランスを生みだし、食の持続可能性に危機をもたらすことにもなったのである。現在喧伝されている旬という実際は、経済社会リズムによって過剰に生みだされ管理されたものである。このことへの揺り戻しという未来へと向かう価値が、この<6食以上>という暮らしのリズムの中にはこめられているといっていい。
辻中 俊樹
株式会社ショッパーファースト シニアフェロー
生活日記調査などエスノグラフィーアプローチによる生活者リサーチとユニークな解析を一貫して実施。
『マーケティングの嘘』(新潮新書)など編著書多数。