辻中俊樹のエスノグラフィーマーケティング⑥ 頻度と関与度から作りだすフィールドノート

<暮らし>リズムマーケティングセミナーでの発言を抜粋してお届けしております。
2018年8月に『エスノグラフィアプローチ―“青空ごはん”の価値をどのように見つけ出す―』というタイトルで行われたものを4回に分けてご紹介しています。
今回はその第三回目です。

〈6〉時短・簡便などの対極を見つける

この青空ごはんというものを見た、この方法が典型的なエスノグラフィというアプローチなんです。集中的にスタディしたのは、20日間位、GW前から終わるまで位でした。それ以降は定期的に、ずっと送られてきているものを見ていますが、そんなに変化はないです。同じような事が続いていってます。

で、ひたすら写真を見ていくことによって、何が分かるかというと、すぐには分かりませんが、“なんで安いビールは出てこないのかな”とか、“なんでワインの登場頻度が多いのかな”とか、“なんでクラフトビールがでてくる訳?”とか、“こんなの見たことない”とか、“普段、見かけないメニューが出てくるのはなぜ?”とか、そういう視点がエスノグラフィの対象の一つなんですけど、私が見ようとしていたのは、価値があるものはなんなのかという事です、別に流行廃りがなんなのかという事ではなくて、どういう事に価値があるのかなという事です。

だから「ラーツー」という言葉も、このスタディまでは知りませんでした。でも、ラーメンも捨てた物じゃないと思います。ツーリング行って、あそこで食べたラーメンは旨かったなというのはあると思います。ここで見ていこうとするのは、流行り廃りが何なのかということではなくて、どういうことは家庭でもあるのかなということを見ていきます。

なんでうまいかと言うと何度も言いますが、手間暇がかかっているからです。手間暇かかったものはうまいです。それは間違いない事実です。手間暇かかってないものはやっぱり美味しくないです。人を感動させられない。というのがこの青空ごはんからわかったことです。

オープンエアーだから良いという、舞台装置としての価値があるのも事実です。でも、蚊が多いとかそういう弱点もいっぱいあるんです。何も外で食べなくてもいいじゃないのとか。蚊と戦いながら串揚げ作るみたいなことにもなってるんです。後はやたら熊出るんですね。まあ当然ですよね。「怖い。一晩、眠れませんでした。」ってことも書いてあるんです。だったら、安全な家でやってた方がいいかもしれないね、ということもある。

ただそれを家庭で実現する時にメニューだけ持ってきてもダメだと思います。時間をかけるって事をお願いしないとだめです。これは手間がかかるし、暇もかかります、使う道具にお金もかかるんですと。まあ、材料はあんまり変わらない、でも普段つけている電気は消してランタンでもつけてみたらどうでしょう?ということだと思います。まあ、でも一年に三回ぐらいしかやらないですよ、間違いなく。でもその三回がその人の食に関する価値をアップさせるんです。

身近に知っていることですが、おでんって、一般家庭で作られるのは共働き夫婦で、お母さんが朝から作り置きのおでんを作っておいて、子供たちに、塾から帰ったらコレを食べておきなさいと言っておく、そういう本当に真面目なお母さんが真剣に手抜きをするためのメニューです。それすら、今、危なくなっている。でもね、集いの場面があった時には少し手間も暇も時間もお金もかけていいんじゃないと言うシーンもあるんです。それが紀文さんで言えば、お正月というものです。お正月は全員、手間暇時間をかけてます。そういう時に普段と違うおでんを食べてくれるようになればいい。さすがに正月から青空に行ってくれとは言いません。 集いの場面で価値のある事が出来れば。例えば、季節の良い時には、外のシーンで青空ごはんのおでんを食べる、みたいなことになると素敵だろうなと思っています。食べたことのない物はなかなか出てこないですが、おでんはそれなりに馴染みのあるメニューです。ただ、せめて、“コンビニで買ったおでんを野原ごはんで食べる”というような事は阻止したいなと思っています。それは、今言った“青空ごはんというコンセプト”から見た場合ですね。

〈7〉これがフィールドノート~高頻度低関与シーン~

今の時代、食シーンに手間・暇かけろというのは一種の暴論です。マーケターでこんなことを言う人はまずいない。料理研究家でもいない。マーケティングは基本的に売るためにあるものですから、手間がかからない・時間はかからない・死ぬほど安い・これが基本です。ただ、それだけじゃだめなんだということを僕は青空ごはんから教わりました。

ことの価値あるシーンとごちそう

エスノグラフィやっている時に、なんなんだろうなコレ?と、「うまそうな酒飲んでるな」とか、いろんなトピックスあるんだけど、 なんとなく、食シーンの全体を整理するために、登場頻度と関与度(価値)を軸にフレームを引いてみた時の図です。これを見ると「悪くないなソロ飯」と思いました。 これからますます増えそうだなあソロ飯はということになると、普段の食事とどっちにも相乗効果があるようなことが生まれると、食全体が豊かになるのかもしれない。図のセンターに書いてある日常の家族ご飯、これが一番頻度が高いんですよ。ただ実は関与度が最も低い。日本の食品メーカーも流通業も必死になってここを取りに行っている。そうじゃないこの周りにあるところをやって行けばいいねと僕は思っています。 もちろん一番大切なのは高頻度低関与のシーンであるべきだけれども、両方にまたがっていくバランスが非常に大切なんじゃないかと思います。

何でこんなふうになったのかと言うと、家の中で食べるご飯というのは基本的に標準世帯を対象にしています。お父さんお母さんと食べ盛りの子供達で構成されています。この標準世帯が食べている日常的な食事が最も価値のある食事だ、と考えている時代が日本にあったんです。1960年代から1990年代までです。でもその頃から社会は変わってるんです。標準世帯は今マイノリティになりつつあるんです。人口のシェアを見たらわかるでしょ。65歳以上のシェアが高い。15~65歳の生産年齢人口が激減しているんです、ましてや、そこにくっついている子供たちはもっと減っている。0歳~15歳で人口を見てもいま1500万位しかいないんです。そうするとどこに価値を持って行かなきゃいけないのかということを考えると、標準世帯中心主義で考えても駄目なんです。そこにとらわれていると、一人で食べているシーンは孤食と言って、貶めたくなるんです。じいさんばあさん二人で食っているのは寂しい老夫婦の食事と貶めたくなるんです。標準世帯の食事が一番大切だというのは一種の洗脳に近い。だから、こういうことは捨てよう。老人夫婦の寂しい食事という考え方も捨てよう。本当はねシニアというのは時間をもってますから、手間も暇も、それから一点集中だったらコストもかけられますから。100 グラム1000円以上のヒレ肉を夫婦で分けることもできるんです。そんなにいっぱい食べたくないからね、そういうことができる。標準世帯は豚肉以外買いません。

セグメンテーションとしての富裕層というのはありますけれどもそういう概念ではないと思います。シーンを捉まえていかないと。これを行動デザインとか行動ターゲティングとかいうんです、行動そのものを捉まえるという訳で、その行動を翌日しなくったって構わないんです、3ヶ月後にまたやってくれればいいというだけの話です。

〈8〉エスノグラフィの原点

エスノグラフィのアプローチというのは少し原理的な話をすると言葉そのものは民族学という言葉なんです。民族というのは例えば日本民族とかそういうことです。民族というものを調べていくときに使っている言葉です。それが原点ですけれども基本的には、はっきりしているのは習慣も文化も違う人間集団に対して、この人達何者なの?というのを調べに行ったというのがエスノグラフィのスタートです。

習慣、文化が違った場合、さっきの話で言うと、例えば“赤城湖畔まで「ラーツー」”みたいな事が書いてあっても分かんない。習慣が違ったらそれが理解できるまでには何回も何回も見ているしかないんです。まだ僕の場合は日本人同士なので何とかなります。写真見てれば「ラーメンとツーリングの合成か」と分かりますけれども、これが異質な民族空間にいると言語体系が全く違うので分からないんです。もっとすごいのは無言語に近い民族をアプローチしていくと全く近代型のスタディが成り立たないんです。だから、とにかく見ていくしかないんです。それも確率論なんです。その時はやっていたかもしれないけれども、次見たらやってない、みたいなこともあるんです、どっちが正解だなんてわかんない。だから繰り返し繰り返しアプローチをしていき、できればよくわからない文物を集めてくるんです。お面とかね。お面100枚それだけ見ても何も分からないです。でもそういうものの累積の上で「どうもこういうことかもしれないね」というところを見切っていく。前回話した林知己夫さんが B29が来るのをずっと見ていたというのと一緒です、B29も天気がたまたま悪かったら来ない時もありますから。

マリノフスキ レヴィ=ストロース
レヴィ=ストロース 悲しき熱帯Ⅰ,Ⅱ

もう一つ、レヴィ=ストロースという人の本があります。これはアマゾンの奥地に入っていきます。やっぱりよくわからない人たちの観察をしています。「悲しき熱帯」という本になっています。これがエスノグラフィの原型です。

現代風のエスノグラフィとして、SNSを見に行くというのも、私から見ればマリノウスキーと一緒で、西太平洋の原住民を見るというのと通じるものがあるのです。“何でここでこんな酒を飲んでるんだろう?”とか、疑問に思っていく、それがエスノグラフィというアプローチの一つの方向性だと思います。

オンタイムで見ていくのが行動観察ですから、リアルタイムでないものを見るためにはそれこそ文物とかそういうものを見るしかないですから、そういう時間軸をものすごく長くとっていくと考古学ということになると思います。エスノグラフィの方法というのはいろんなことに使えて結構面白いです。

(この項、次回に続く)

辻中 俊樹
株式会社ショッパーファースト シニアフェロー
生活日記調査などエスノグラフィーアプローチによる生活者リサーチとユニークな解析を一貫して実施。
『マーケティングの嘘』(新潮新書)など編著書多数。