辻中俊樹のエスノグラフィーマーケティング⑤ 「ラーツー」というシーン、そして「デュオ飯」の組み立て

<暮らし>リズムマーケティングセミナーでの発言を抜粋してお届けしております。
2018年8月に『エスノグラフィアプローチ―”青空ごはん”の価値をどのように見つけ出す―』というタイトルで行われたものを4回に分けてご紹介しています。
今回はその第二回目です。

〈4〉カレーが落伍者になってしまった

あとは、私の経験から言うと、キャンプの食事と言えば、私達の時代は、カレーは絶対なんです。で、大きな鍋でカレーを煮てですね、落ち葉が入っていたりもするんです(笑)夜になって暗くなってくると、中も見えなくて、闇鍋状態になります。これが最高級のメニューです。で、カレーは時間がかかります。よせばいいのに、青少年が集まって、じゃがいも、人参、切ってですね。カレーのルーを割り込んで、手作りで2時間以上かかります。このカレーの味というのは最高の味覚です。

60代よりも上の世代にとって、美味しいカレーというのは“妻の味”じゃない、“母の味”でもない。カレーというのは、青空ごはんとしての価値を持っているんです。それは美味しいなと思ったので、家庭の中でも、子供達に、そういう時だけはお父さんがハッスルして、カレーを作って、みんなでカレーを食べようよと。ウチの子供達も、小学校3、4年生位までカレ-を食べさせられていたと思います。この時までカレーは価値がありました、ある時から、価値が低下していきます。この青空ごはんの場面も、本当にカレーが出てこないんです。要するに楽しくないんでしょうね。もうカレーを作るという事が、価値のある行為と見えなくなってきているんでしょうね。理由は色々あると思います。さっき言った、手間・暇かける、ギアも色々凝る、こういう要素から、いつからかカレーは落伍者になっていってしまった。これはメーカーの責任だと思います、カレーは「簡便だ」と言ったでしょう。「カレーは難しい」と言い続けないとダメです。難しいけれども、ウチのカレールーを使えばとても美味しいものができます、と言い続ければカレーの価値は下がってない。

で、簡便の挙句、レトルトになります。あの商品がダメとは言いませんよ、良い商品だと思います。ただ、どんどんそうやって、カレーを価値の低い物にしていってるんです。今は、カレーというカテゴリーの商品の中で、ルーとレトルトの売り上げが逆転して、レトルトの方が大きいんです。レトルトのカレーを持って、赤城湖畔に行って、お湯を沸かして、真空パックのご飯を食べて、「今日は幸せだった」なんて人はいないと思います。これは、人々が考えている事のどこに価値を感じさせてあげられるのかという事だと思います。企業の生き筋というのはこれは別の問題としてありますけど。行きつくとこまで行くとすごいなと思うのは、レトルトのカレーがどんどん高級化していっています、BEAMSがレトルトカレーを売っているんですね。疑問にも思ったけど、これは分かるような気もする、だって、レトルトのカレーというのは「ソロ飯」ですから、「ソロ飯」に豊かさを求めていくという、「孤食」と言えば投げ捨てたような印象ですけれども、赤城湖畔まで行って「ラーツー」やってくるのと同じように、カレーもこんなに素敵な食べ方ができるんだというのが見つかればOKでしょうね。これからは、レトルトのカレーは高級化・高度化していくと思います。BEAMSのカレーが売れていると思ってはいないけど、意味はあるでしょうね。野口君にその話をしたら「私はMUJIのカレーを食べています」と言っていた(笑)。バーモントカレーのレトルト食べるよりもMUJIのカレーという選択はあるのかもしれない。

シーンとしては、一人でレトルトを食べるというのは「エサ」ですね、言ってしまえば。それにバリエーションがいるのか?という疑問もあるんだけど、例えば、今日はキーマにしようとか、今度はナントカとか、ある選択のもとに行われているということは、ソロ飯というシーンが価値のあるものになっていくという一つの表れであると思います。マスマーケティングの対象になるとは思えませんけどね。でも、食というのは、そういったフェイズをたどっていくというのも一つの側面としてあるんです。それは、青空ごはんという概念を通して、とっても良くわかることです。

資料にカレーの現在・過去・未来と書いていますけれども、過去は私たちの時代です。カレーは面倒だったんです、面倒だけど、面倒だからこそ、価値のあるものを一生懸命作って食べていた、だから、家庭の中でもカレーというのはごちそう感があったんです。それは、高い牛肉を入れているとかそういう問題ではなくて、例えば、私は比較的料理をよく作るタイプですけど、カレーの時は、家族から「お父さん汗水たらしてえらい頑張っている」と思われるとか、そういう価値が存在しているんです。

もちろん、一人でお昼食べるから、レトルトでも良いかな?とかそういうシーンはあっていいんです。でも、価値のない食べ物になってしまうというリスクもある。それは、シーンそのものに価値がなくなっていくという事です。でも、もしかしたら、レトルトカレーにも未来があるのかもしれないと思うのは、BEAMSとかMUJIがやっているというのが潮流の一つだと思いますが、BEAMSも無印も、そんなことまで考えてやっているとは思いません、勢いで、良さげなものをやっていこうというノリだと思います。

でも、実態は、ソロ飯というシーンは価値があるんだという事です。そこにぶつかっているという意味では、MUJIのカレーも価値があるんです。まさか家族で食べていないでしょう?(「夫婦それぞれ好きなものを選んでます」)なるほどね。それは、夫婦で食べていても、概念としてはソロ飯ですから。 そしてソロ飯が組み合わさってできた家族の食卓という点に価値があります。

私はこれから、「ソロ飯」と言い続けようと思っているんですが、「孤食」という概念は絶対に止めるべきです。孤食は悲惨極まりないものの代表選手でしょう。ロクな食事をしていないから、段々、人間おかしくなっていく…そんなことはないんです。ソロ飯は価値です。この第一歩のインサイトは私は青空ごはんから見たものです。青空ごはんの肝は、別にキャンプで何を食べているかということじゃないんです、こういうシーンに存在している価値のあるキーワードはなんだろうかというのを見ていった時に「ソロ飯」というのがあるんです。さすがに、家の中で炬燵の上で、お湯沸かしてカップラーメン食べていたら、ちょっと…というのはあるかもしれない。でも、これも考えようによっては、リッチなソロ飯になる可能性もあるんです。

〈5〉時間をかけることが生みだすこと

次にお話したいのが二人の食事、「デュオ飯」です。やっぱり素晴らしいなと思いました。これも青空ごはんからなんとなく感じたことです。さっきの、シニアの夫婦のお弁当もそうですけど、とっても素敵だと思います。これも自宅の中でできなくはないんです。二人飯という事です。世の中、おかしいなと思うのは、70代の老夫婦が、家でしんねりと食べている食事って、とても不味そうに語るでしょ。NHKのクローズアップ現代でも、老夫婦二人、ジジとババが食べている食卓ってとても不味そうに映すんです(笑)悲しい、涙がでそうな感じなんです。そんなことないんだな、二人で食べる食事が旨いんです。会話も要らない。なぜか?無言で通用するからこそ、二人が成り立っているのです。

あとは、やっぱり集って食べているご飯は美味しいねと思わせるだけの価値が青空ごはんにはあるんです。青空ごはんを見ているとやっぱりキャンプですから、沢山の人間が集まって食べていて、普段焼いていない肉も焼いています、確かに。これは美味しい。普段、共働きの夫婦が子供もいて、アヒージョなんか、家で作る訳がない。燻製でも作ってみるかなんて誰が言うかと。おでんも危ないかもしれない、カレーの二の舞になるかもしれない。そのうち、レトルトおでんでも食べておきなさい、みたいな感じで、あてがい扶持のものを食べていると落伍者になっていくでしょう。

やっぱり青空ごはんで食べている物は、さきほどの串揚げにしてもそうだけど、食卓で出てくるものよりもワンランク上。でも、全く見たことも食べたこともないというものは出てこないんです。どこかに体験があって、馴染みがある。アヒージョだって、中身はしれたものです。奇妙奇天烈なもの入っている訳でもない。おくらを何本か入れてあるアヒージョなんかもありましたが、美味しそうでした。あとは、しいたけとか。おでんもそんなに凝ったものではないけれども、ちょっとした違いを出す。

青空ごはんを見ていて、やはり、ここにこそ人々が一定の価値を見出そうとするんだなと思ったのは、飲んでいるアルコールのレベルが違うんです。発泡酒なんてほとんど出てきません。これは普段、仕事帰りとかに、疲れて飲むものでしょう。それを青空ごはんで飲むかと言えば、やはり違います。最低限、モルツです。ビールがでてくるとすれば、その上の、クラフトビールが出てきます、すっごい多いです。キャンプに行く所というのは、ちょっと遠方が多いですから、地域特産のクラフトビールも売っています。

それから、なるほど、こういう所に需要があったのかと思ったのは、各地域のブリュワリー別に名前のついた「一番搾り」。例えば、仙台近くのキャンプ地で飲むのは、「仙台づくり」です。最低それ位の嗜みは必要だよね?みたいな感じです。

キャンプでの料理写真

あとはワインが多い。価格は平均的なものです。一般小売店でいうと、1200円位のもの。私自身にとってはえらい高いと思うけど。普段は600円位のチリワインを飲んでいるから(笑)

あとは、びっくりしたのは、ウィスキーがよく出てくるんだな。それも、バーボンです、テネシーウィスキー。これは、場面そのものに時間の流れがあるという事なんです。だって、ウィスキーをロックで飲んでいるということは、1~2時間そこに座っていないと無理でしょう。それだけの時間の流れが、食べたものと同期してそこに存在しています。

昼間は太陽という最高の贈り物があるんです。太陽の光は人間を明らかに豊かにします。一方で、夜は焚火とか、ランタンの光、そういうファイヤーに近い光です。この灯りの下で飲むウィスキーはそれは美味しいでしょう。やっぱり自宅のそう高くもない、ペラペラの家具に囲まれて、ウィスキーを飲んでもダメでしょう。少なくとも、こういうシーンに似合う道具立てとは言い難い。だから、時間が違う、手間が違う、暇のかけ方が違う、そしてそこに求めている食に対する欲求が違う。飲んでいるアルコールを見た時に本当にそう思いました。

人によっては、キャンプシーンそのものがバーよりもすごい、イケテルんじゃないという人もいました。アルコールを見て、決定的に、青空ごはんの方に人々が価値を認めているということが分かりましたね。ただ、誤解して欲しくないのは、何もこれから、キャンプ飯をみんなで盛り上げようとかそんなことを言ってるんじゃなくて、人々が感じる価値がどこにあるのかなと思った時に、一つの整理になるんじゃないかと思ってるんです。そこに失敗するとカレーの二の舞になってしまうかもしれない。カレーというメニュー自体は本当はとても素晴らしいもので、リポジショニングしてやれば、必ず復権できると思いますが、そんなことももう考えていないんだと思います。

(この項、次回に続く)

辻中 俊樹
株式会社ショッパーファースト シニアフェロー
生活日記調査などエスノグラフィーアプローチによる生活者リサーチとユニークな解析を一貫して実施。
『マーケティングの嘘』(新潮新書)など編著書多数。